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藤次寺について

藤原氏の菩提寺として

当山は今より約千二百年前の弘人年間(810~824年)に公卿や歌人として知られる藤原冬嗣公の発願により、その甥の任瑞上人を開基として建立されました真言宗の古刹です。建立の趣旨が藤原氏を治める寺である所から藤治寺と称し、代々藤原氏の祈願として栄えてきました。 江戸時代には九条家の祈願寺として幕末にまで至りましたが、明治には生玉十坊中の地蔵院を併合して藤次寺と改称し、「大阪の融通さん」という別称で多くの人々から信仰されて参りました。

藤原冬嗣公『前賢故実第三巻』

如意宝珠融通尊

宝生如来

本堂に安置されている本尊、如意宝珠融通尊(宝生如来)は衆生に福徳をお授け下さる増益の仏さまであります。仏教初期の経典によると、如意宝珠の光は遍く十方に輝き、その大光明に触れる者は全ての苦しみや煩悩から除かれて身も心も安らかになり、その功徳によって全ての人が貧窮から救われ、人々の一切の願望が成就するということが説かれてあります。そして如意宝珠が招福除災を祈願する理想の宝として古くからインドや中国において信仰されていました。
七世紀頃に真言密教が現れると、如意宝珠は理想の宝物から現実の本尊として重要な意義を持つようになります。真言密教には宝生如来という如来様がおいでになりますが、この如来様は虚空菩薩に化身し、如意宝の功徳をもって一切の人々をを貧苦から救うを事を誓願されておられます。この宝生如来の御徳を現したものが密教の如意宝珠でありますので本尊如意宝珠を礼拝することで私達が持っている内なる宝、即ち浄らかな本心を磨いていくのが本当の密教の教えなのであります。

谷町不動尊

本堂内陣に安置されている不動明王は2020年8月に藤次寺に納められました。作者は大仏師として知られている松本明慶氏。太平洋戦争で焼失した護摩堂の復興事業の一つとして新たに造立され、新型コロナウイルスの収束と国家安寧を願い、疫病退散・商売繁盛を祈願し大仏「谷町不動尊」と命名されました。
 不動明王は真言宗における根本の仏様である大日如来の化身であります。すべての迷いと煩悩を断ち切り、我々を守ってくださいます。そのお顔は忿怒の形相で、後背は炎に包まれておりますが、その姿は全ての悪を正しい方向へ導く為であります。不動明王の慈悲深い心に感謝し、日々お祈りいたしましょう。
谷町不動尊

 

山崎豊子の墓

大阪生まれの小説家。毎日新聞社入社、学芸部で井上靖の薫陶を受けた。入社後に小説も書き、『暖簾』を刊行し作家デビュー。映画・ドラマ化され、大人気に。そして『花のれん』で第39回直木賞受賞し、新聞社を退職し専業作家となる。代表作に『白い巨塔』『華麗なる一族』『沈まぬ太陽』など。平成25年(2013年) 没。享年89歳。現在でも多くの作品が映画化・ドラマ化されている。藤次寺では山崎豊子氏の命日である9月29日から10月1日までの三日間を「豊子忌」とし、毎年多くの方がお参りされます。
 
 


 

高田屋嘉兵衛と妻おふさの墓

嘉兵衛は淡路の人。明和6年(1769年)生。江戸後期の海運業者、兵庫と蝦夷地(北海道)との北前船交易により財を成し、択捉島への航路や漁場を開拓した。ロシアの航海家ゴロブニン抑留の報復としてカムチャツカに連行されたが、ゴロブニンと交換、釈放される。のち、日露の融和のために尽力した。文政10年(1827年)没。高田屋嘉兵衛を主人公とした司馬遼太郎の歴史小説『菜の花の沖』が2000年にNHKによってドラマ化された。(写真右が嘉兵衛とおふさの墓)